ウルム造形大学とは——バウハウスの何を継ぎ、何を捨てたか
1953年9月、南ドイツのウルム市に一つの学校が開校しました。設立者の一人、インゲ・アイヒャー=ショルは、兄と妹がナチスに処刑された「白バラ」抵抗運動の遺族でした。彼女にとって、デザイン教育は政治的行為でもありました——独裁者を生み出した社会を、合理的な思考によって作り直すための試みとして。
ウルム造形大学(Hochschule für Gestaltung Ulm、略称HfG)は、バウハウスが閉校して20年後に生まれたバウハウスの「後継校」です。しかし後継であることは、模倣することではありませんでした。
なぜウルムで、なぜ1953年か
設立者はインゲ・アイヒャー=ショル、グラフィックデザイナーのオトル・アイヒャー(インゲの夫)、そしてスイス出身の芸術家マックス・ビルの三人でした。資金は西ドイツ連邦政府とアメリカのロックフェラー財団から提供されました。冷戦下の西ドイツで「民主主義的な思考を持つデザイナー」を育成することは、政治的にも戦略的な意味を持っていたのです。
校舎はマックス・ビル自身が設計しました。ウルム郊外の丘の上に建つ白い建物群は、周囲の農村風景の中でひときわモダンな外観を持ちます。その建物は今も残り、ユネスコの世界遺産候補として保護されています。
バウハウスから継いだもの
HfGはバウハウスの精神的な後継として自らを位置づけ、いくつかの核心的な原則を受け継ぎました。
まず「予備課程(Vorkurs)」の考え方です。バウハウスのヨハネス・イッテンが作り、モホイ=ナジが発展させた基礎教育——素材・形態・空間を実験的に探る訓練——をHfGも最初の必修課程として採用しました。「何かを作る前に、素材と空間を理解せよ」という思想の継承です。
次に「芸術・工芸・産業の統合」という志向性。個別の職人芸を超えて、工業生産と結びついたデザインを目指すことは、バウハウスとHfGに共通した方針でした。
バウハウスが捨てたもの——芸術から科学へ
しかしHfGはバウハウスの重要な部分を意図的に切り捨てました。それは「芸術」です。
バウハウスには、クレーやカンディンスキーという画家が教え、デザインと純粋芸術の境界を意識的に曖昧にしていました。HfGはその路線を否定しました。「デザインは芸術家の個人的表現ではなく、論理的・科学的な問題解決である」——これがHfGの立場でした。
1954年以降、アルゼンチン出身の理論家トマス・マルドナードが台頭するにつれ、HfGのカリキュラムは急速に「科学化」されます。記号論(セミオティクス)、サイバネティクス、人間工学、社会学が必修科目として加わりました。学生は美を追求する前に、ユーザーの行動・知覚・文化的文脈を分析することを求められました。
「デザインとは、問題を定義し、証拠に基づいて解決し、検証するプロセスである」——HfGが作ったこの定義は、20世紀後半に世界のデザイン教育が向かう方向を先取りしていました。
ブラウン社との協働——思想が製品になる瞬間
HfGの思想が最もドラマチックな形で現れたのは、フランクフルト近郊の電機メーカー、ブラウン社との協働でした。
1954年、HfGの教授ハンス・グッゲロートが学生チームとともにブラウン社のコンサルタントとなりました。それまでのブラウン製品——ラジオや電蓄——は、「家具に偽装した機械」でした。木製キャビネットの中に電子部品が詰め込まれ、まるで家具のように見せていた。HfGのデザイナーたちはこれを根本から変えようとしました。
「機械は機械として見えるべきである。機能を隠す必要はない」——1956年に完成したSK4は、透明なプラスチックの蓋を持つ白い金属筐体のプレーヤーでした。家具に見せかけることへの拒絶が、製品の美しさになった瞬間でした。
15年間で世界を変えた学校
HfGは1968年に閉校するまでの15年間、約640名の学生を教育しました。在学中の学生数は年間150〜200名程度の小さな学校でした。しかしその卒業生たちは、ドイツを超えて世界の工業デザイン教育に散らばり、HfGのメソドロジーを各地に植え付けました。
バウハウスが「芸術家をデザイナーにした」とすれば、HfGは「デザイナーを研究者にした」と言えるかもしれません。それは今日、私たちが「デザイン思考」と呼ぶものの直接の先祖です。
ZACKの製品が持つ機能的な誠実さは、この連鎖の中にあります。感覚だけでなく、使用者の行動と素材の論理から形を導く——それはウルムが産業デザインに持ち込んだ問いそのものです。
Photo: Hans G. Conrad / René Spitz, CC BY-SA 3.0. HfGウルム校舎(マックス・ビル設計)、1955年撮影.
この記事は ドイツデザインの系譜|機能と美が出会った100年の歴史 アーカイブの一部です。
こちらもおすすめ
Series
ドイツデザインの系譜 — 全記事一覧
前史——バウハウスが生まれる土壌
バウハウス(1919–1933)
- 4.バウハウスとは何か——ワイマール共和国が生んだ実験
- 5.グロピウスが夢見た「統合芸術」——バウハウスが目指した全体デザイン
- 6.バウハウスの金属工房革命——ティーポット一つが変えたデザイン史
- 7.マリアンヌ・ブラント——バウハウスの金属工房を制した女性
- 8.バウハウスの素材実験——なぜ「飾らない」を選んだか
- 9.ナチズムとバウハウス——閉鎖に追い込まれた本当の理由
- 10.バウハウスの亡命と拡散——思想はいかにして世界に広がったか
- 11.パウル・クレーとワシリー・カンディンスキーはなぜバウハウスにいたか
- 12.バウハウスとソヴィエト構成主義——交差した二つの前衛
- 13.バウハウスが残したもの——現代デザインへの100年の影響
ウルム造形大学(1953–1968)
- 14.ウルム造形大学とは——バウハウスの何を継ぎ、何を捨てたか
- 15.マックス・ビルとスイス造形思想がドイツに持ち込んだもの
- 16.ハンス・グッゲロートとブラウン社の出会い——システムデザインの誕生
- 17.ウルム造形大学はなぜ閉校したか——政治とデザインの衝突
- 18.ウルムからアップルへ——シリコンバレーが受け継いだドイツの遺産
ディーター・ラムスと機能主義
- 19.ディーター・ラムスとは誰か——ブラウン社60年の軌跡
- 20.良いデザインは革新的である——ラムス第1原則
- 21.良いデザインは製品を便利にする——ラムス第2原則
- 22.良いデザインは美しい——ラムス第3原則
- 23.良いデザインは製品を理解しやすくする——ラムス第4原則
- 24.良いデザインは控えめである——ラムス第5原則
- 25.良いデザインは正直である——ラムス第6原則
- 26.良いデザインは長持ちする——ラムス第7原則
- 27.良いデザインは細部まで徹底している——ラムス第8原則
- 28.良いデザインは環境に配慮している——ラムス第9原則
- 29.良いデザインはできる限りデザインしない——ラムス第10原則
- 30.ラムスとジョナサン・アイヴ——アップルが認めたドイツの遺産
ドイツ製造哲学
この記事は ドイツデザインの系譜|機能と美が出会った100年の歴史 アーカイブの一部です。
ZACK.HAUS































































































