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ナチズムとバウハウス——閉鎖に追い込まれた本当の理由
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ナチズムとバウハウス——閉鎖に追い込まれた本当の理由

1933年7月20日、ベルリンのバウハウスで教員全員が集まり、採決を行いました。議題は一つ——学校を自ら閉じるかどうか。賛成多数で解散が決まりました。
バウハウスは壊されたのではなく、自ら幕を引きました。しかしその選択が「自発的」に見えるまでの道のりには、10年に及ぶ政治的圧力の歴史がありました。


最初の攻撃——テューリンゲンの右翼政権

ナチスによる最初の打撃は、1924年に訪れました。テューリンゲン州の選挙で社会民主党が敗北し、右派国家主義者を含む保守連合が政権を握ったのです。新政権はバウハウスへの敵意を隠しませんでした。
教員全員の契約は6ヶ月に短縮され、補助金は半額に削減されました。グロピウスはこれに対して受動的に待つのではなく、先手を打って自ら閉校を宣言し、バウハウスをデッサウ市へ移転させます。社会民主党が与党のデッサウ市長が、校舎の新築を約束して誘致したのです。
しかしナチスの攻撃が止まることはありませんでした。1930年1月、ヴィルヘルム・フリックがテューリンゲン州内相兼文相に就任します。ドイツ史上初めてナチスが入閣した瞬間でした。フリックはただちに旧バウハウス跡地の学校からバウハウス関係者を全員解雇し、代わりにパウル・シュルツェ=ナウムブルクを学校長として送り込みました。


「文化的ボルシェヴィズム」という武器

ナチスがバウハウスを攻撃するとき、繰り返し使ったのが「Kulturbolschewismus(文化的ボルシェヴィズム)」という言葉でした。

バウハウスは「ボルシェヴィキ的」「非ドイツ的」「無国籍のコスモポリタン」——そのような蔑称で呼ばれました。多国籍な教員と学生、抽象的な形態語彙、陸屋根の建築。これらすべてが「ドイツ民族の伝統に反するもの」として槍玉に挙げられました。

1928年に著書『芸術と人種(Kunst und Rasse)』を発表したシュルツェ=ナウムブルクは、障害者の写真と表現主義の絵画を並べて「人種的退化の証拠」だと主張しました。建築の様式は作者の人種的アイデンティティを反映するというのが彼の論理であり、陸屋根は「ユダヤ人の発明」とされました。

シュレンマーの階段フレスコ画(バウハウス・ワイマール、1923年制作/1979年復元)Photo: CC BY-SA 3.0

なぜバウハウスがこれほど激しく攻撃されたのか。それはバウハウスが本質的に「コスモポリタン」だったからです。外国人教員・外国人学生を積極的に招き、民族や国家の概念を超えた普遍的なデザイン言語を追い求めていた。それはナチズムの世界観と根本から相容れないものでした。


デッサウ閉校——1932年8月22日の決議

1931年にデッサウ市議会でナチスが多数派を獲得すると、閉校は時間の問題でした。1932年8月22日、市議会の採決でバウハウス閉校が決議されます。反対票を投じたのは共産党議員と市長だけでした。
決議の文言はこうでした——「外国人教員は即刻解雇。苦しむドイツ国民の税金で外国人が優遇されるのは良き指導者の責任と相容れない」。バウハウスへの非難は、最後まで「外国人問題」として包まれていました。
ミース・ファン・デル・ローエ(当時の校長)はあきらめませんでした。自費でベルリン郊外の廃工場を借り、バウハウスを私立学校として継続させます。しかしそれも長くは続きませんでした。


ゲシュタポとの最後の交渉

1933年4月11日、ゲシュタポとSAがベルリンのバウハウスに踏み込み、校舎を封鎖、学生32名を逮捕しました。
ミースはゲシュタポ長官と直接交渉し、条件付きで再開の許可を取り付けます。しかしナチス側が提示した条件は、バウハウスの存続を実質的に不可能にするものでした。カンディンスキーを「共産主義者」として解雇すること、いくつかの教員を人種的理由で排除すること——。
ミースはこの条件を拒否しました。妥協すれば学校は残るかもしれない。しかしバウハウスではなくなる。その判断が、7月の自発的解散へとつながります。


1933年7月20日——自ら幕を引く

採決の結果、バウハウスは自発的に解散することを決めました。「政治的均一化(Gleichschaltung)」——ナチスへの同調——を拒否するための選択でした。
直後から、教員たちはドイツを離れ始めます。グロピウスはロンドンへ、ミースはアメリカへ、カンディンスキーはパリへ、クレーはスイスへ。モホイ=ナジはシカゴで「ニュー・バウハウス」を設立します。アンニ・アルバースとヨーゼフ・アルバース夫妻はノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジへ。
残された者もいました。ユダヤ系学生のフリートル・ディッカー=ブランダイスは逃げることができませんでした。テレジーン(テレジエンシュタット)収容所に収監された彼女は、そこで子供たちに美術を教え続けます。1944年にアウシュヴィッツへ移送され、到着後まもなく命を落としました。彼女が遺した4,500枚の子供たちの絵は、今も戦争の証言として保管されています。
デッサウのバウハウス校舎は、ナチス党の地区指導者学校として使われた後、1945年の空爆で大破しました。


「思想は壊せない」——閉鎖が証明したこと

バウハウスが閉校に追い込まれた理由は、建物や学校という制度を破壊することで、その思想も消えると考えた者たちの誤算を証明しています。
亡命した教員たちはアメリカの大学でバウハウスの方法論を教え、次の世代のデザイナーを育てました。イリノイ工科大学、ハーバード大学、ブラック・マウンテン・カレッジ——バウハウスの思想はナチスが閉じ込めようとした国境をはるかに超えて拡散しました。
1937年、ナチスは「退廃芸術展」でバウハウス関係の作品を「人種的退化の証拠」として展示しました。皮肉なことに、その展覧会を見た人々の多くは、作品の中に美しさを感じたと言います。

バウハウスを制度として閉じることはできても、その教育と方法論を消し去ることはできませんでした。むしろ亡命によって、思想は国境を越えて広がっていきます。ナチスが恐れた普遍的なデザイン言語は、皮肉にも、その弾圧によって世界へ拡散していったのです。


Schlemmer fresco: Photo CC BY-SA 3.0. Wall fresco by Oskar Schlemmer, Bauhaus Weimar (1923 / restored 1979). AI-enhanced.

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