本文へスキップ

カート

カートが空です

ハンス・グッゲロートとブラウン社の出会い——システムデザインの誕生
ulm

ハンス・グッゲロートとブラウン社の出会い——システムデザインの誕生

1956年、フランクフルト近郊の工場で一台のプレーヤーが完成しました。白い金属の筐体、透明なプラスチックの蓋、水平に並んだシンプルなボタン。「白雪姫の棺(Schneewittchensarg)」——その愛称は、余分なものをすべて取り除いた美しさを的確に言い表していました。
ブラウンSK4を設計したのは、HfGウルムの教授ハンス・グッゲロートと、ブラウン社の若い社内デザイナー、ディーター・ラムスでした。この出会いが、現代工業デザインの方向を決定づけます。


インドネシアで生まれたスイス系建築家

ハンス・グッゲロート(Hans Gugelot、1920–1965)の経歴は異色でした。オランダ植民地時代のマカッサル(現インドネシア・スラウェシ島)に生まれ、スイスのチューリッヒ工科大学(ETH)で建築を学びました。建築家として出発した彼が工業デザインに向かったのは、マックス・ビルとの出会いがきっかけでした。
ビルに招かれてHfGウルムに着任した1954年、グッゲロートは製品設計部門を担当します。建築家としての訓練が、彼に独特の視点を与えていました。個々の部品ではなく、全体のシステムとして製品を捉える視点です。


ブラウン社への「介入」——システムとしての家電

1954〜55年頃、グッゲロートは学生チームを率いてブラウン社のコンサルタントとなりました。当時のブラウン製品——ラジオ、電蓄、電気シェーバー——には統一した設計哲学がありませんでした。製品ごとに異なるスタイル、異なるボタン、異なる操作方法。それをグッゲロートは根本から変えようとしました。
彼のアプローチは「システムデザイン」と呼ばれます。個々の製品を美しくするのではなく、製品間の一貫したデザイン言語を確立する。同じ素材感、同じ操作ロジック、同じ比率感覚——ユーザーがブラウンの製品を手にしたとき、一つを使えば他も直感的に使えるという設計。これはソフトウェアの「UI/UXデザイン」が生まれる何十年も前のことでした。


SK4——建築家が家電を設計したとき

1956年のSK4(ステレオフォノスーパー)は、グッゲロートとラムスの共同作業の結晶でした。
それまでの電蓄(レコードプレーヤー兼ラジオ)は、木製キャビネットに収めて「家具のように見せる」のが常識でした。SK4はその常識を捨てました。金属の白い筐体をそのまま見せる。透明アクリル板の蓋で、内部のターンテーブルを可視化する。「電子機器は電子機器として見えてよい」という宣言でした。
この製品は市場で賛否を呼びましたが、デザイン史において決定的な転換点となりました。機械の内部を隠す必要はない。正直な素材と正直な構造が、それ自体として美しい——この思想は後にジョナサン・アイヴを通じてアップルへと伝わります。


M125——モジュールという発想

グッゲロートの貢献はブラウンに留まりませんでした。1957年に発表したM125家具システムは、「モジュラーデザイン」の先駆的な作例です。
125mmを基本単位とした棚・キャビネット・デスクのシステムで、ユーザーが自由に組み合わせることができる設計。製品が一つの完結した「作品」ではなく、ユーザーが目的に応じて構成する「システム」として設計されていました。現代のIKEAのフレームワーク、アップルのエコシステム戦略——その原型がここにあります。


45歳での早世——残された問い

ハンス・グッゲロートは1965年、45歳で亡くなりました。HfGウルムがまだ活動していた時期のことです。
彼が生きていたのはたった11年間の活動期間でした。しかしその短い期間に、彼は「デザインとは何か」という問いに対して、言葉ではなく製品で答えました。機能を隠さない。システムとして考える。使う人の視点から始める——これらはグッゲロートがブラウン社との協働を通じて実践した原則であり、今日のプロダクトデザインの基本語彙となっています。
「開発グループ・グッゲロート」と呼ばれた彼のチームからは多くのデザイナーが育ち、ドイツ内外の産業デザインへと散らばりました。グッゲロートという名前は一般にはあまり知られていませんが、彼の問いは現在も、あなたが使うすべての製品の中に息づいています。


Photo: With Associates / CC BY-SA 2.0. Braun Phonosuper SK4, 1956. ハンス・グッゲロート+ディーター・ラムス設計. AI加工。

この記事は ドイツデザインの系譜|機能と美が出会った100年の歴史 アーカイブの一部です。

Series

ドイツデザインの系譜 — 全記事一覧

この記事は ドイツデザインの系譜|機能と美が出会った100年の歴史 アーカイブの一部です。

ドイツデザインの系譜

前後の記事

マックス・ビル「3つの等しい体積からの統一」(1979年)。ボットロップ、クアドラット近代美術館。Photo: Gerardus / Public Domain.

マックス・ビルとスイス造形思想がドイツに持ち込んだもの

1927年、19歳のスイス人青年がデッサウのバウハウスに入学しました。彼はクレーとカンディンスキーのもとで絵を学び、モホイ=ナジのもとで素材と構成を学びました。2年後にチューリッヒへ戻ったとき、彼の頭の中にはバウハウスの問いが刻み込まれていました——「芸術と機能は同じ源泉から生まれるのではないか?」その青年の名前はマックス・ビル(Max Bill、1908–1994)。25年後、彼はその問い...

続きを読む
1968年、西ベルリンの学生デモ。ホー・チ・ミン・レーニン・ローザ・ルクセンブルクの肖像を掲げる群衆。HfGウルム閉校と同年。Photo: Ludwig Binder / CC BY-SA 2.0.

ウルム造形大学はなぜ閉校したか——政治とデザインの衝突

1968年10月、バーデン=ヴュルテンベルク州議会は採決を行いました。議題はウルム造形大学への補助金の全廃。賛成多数で可決され、HfGは同年末(1968年12月)に正式に閉校します。世界最高水準のデザイン学校が、15年で幕を閉じた。その理由は、外部からの政治的圧力と内部からの思想的分裂が同時に起きたことにあります。 外圧——保守州政府との対立 HfGが立地するバーデン=ヴュルテンベルク州は...

続きを読む