バウハウスの亡命と拡散——思想はいかにして世界に広がったか
1933年7月、バウハウスが自発的解散を決議した夜、教員たちはそれぞれの行き先を考えていました。ドイツに残ることは、もはや選択肢ではありませんでした。
しかし歴史の皮肉として、ナチスがバウハウスを閉じようとした行為が、バウハウスの思想を世界中に撒き散らすことになります。閉校は終わりではなく、拡散の始まりでした。
亡命者たちはどこへ向かったか
バウハウスの教員たちは、ほぼ全員がドイツを離れました。
グロピウスはロンドンを経て1937年にハーバード大学デザイン大学院(GSD)の建築学科長に就任。ミース・ファン・デル・ローエは1938年にシカゴのアーマー工科大学(現イリノイ工科大学・IIT)の建築学科長に。モホイ=ナジは1937年にシカゴでニュー・バウハウスを開校。ヨゼフとアンニのアルバース夫妻は閉校の年、1933年の秋にはすでにノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで教壇に立っていました。カンディンスキーはパリへ、クレーはスイスへ。
地図に点を打つとすれば、バウハウスの元教員たちはアメリカ東海岸・中西部・フランス・スイス・パレスチナへと散らばりました。そして彼らが着いた先のそれぞれで、次の世代の芸術家とデザイナーを育て始めます。
ハーバードとIIT——二つの系譜がアメリカを変えた
グロピウスがハーバードで最初にやったことは、ボザール(フランス古典主義)式の教育——歴史様式の模倣と個人競争——を廃止することでした。代わりに導入したのは、バウハウスの予備課程の考え方です。形態・構成・空間・素材の基礎を実験的に探ることから始める教育。グロピウスはかつての教え子マルセル・ブロイヤーも招き、二人でハーバードの建築教育を作り直しました。
その教え子の中にI.M.ペイ、フィリップ・ジョンソン、ポール・ルドルフがいます。戦後アメリカの都市景観を形作った建築家たちです。
一方シカゴのIITではミースが20年かけてキャンパス全体を設計しながら、「構造と素材の論理から始める」体系的な建築教育のモデルを作りました。グロピウスとミースはアプローチは違いましたが、「産業と建築の統合」「素材への誠実さ」というバウハウスの核心は共通して次の世代に手渡されました。
ニュー・バウハウス——シカゴでの再建と挑戦
1937年10月18日、モホイ=ナジはシカゴに「ニュー・バウハウス」を開校します。しかし翌年、スポンサーの資金撤退によって1年足らずで閉校を余儀なくされます。実験的な作品群が「困惑させる名もなき物体」とも評されたとされる展覧会が、産業界の支持を失わせました。
それでもモホイ=ナジはあきらめませんでした。1939年に「デザイン学校」として再建し、1944年には「デザイン研究所(Institute of Design)」に改称。白血病と闘いながら1946年に亡くなるまで所長を務めました。この学校は後にIITと合併し、現在も「IIT Institute of Design」として続いています。
モホイ=ナジの言葉が残っています——「ニュー・バウハウスは単なるデザイナー養成機関ではない。文化的コミュニティの核たることを目指している」。
ブラック・マウンテン・カレッジ——もう一つのバウハウス
ノースカロライナ州の山間に1933年に設立されたブラック・マウンテン・カレッジは、「アメリカのバウハウス」と呼ばれることがあります。ヨゼフ・アルバースとアンニ・アルバースが教え、バウハウスの精神——芸術・工芸・生活の統合——がアメリカの土壌で育ち直した場所でした。
1948年の夏、バックミンスター・フラーがここで最初のジオデシック・ドームを試作しました。ジョン・ケージが偶発性と沈黙を音楽に持ち込んだのもここでした。ロバート・ラウシェンバーグ、サイ・トゥオンブリーがここで学びました。バウハウスの「実験する場としての学校」という思想が、アメリカの前衛芸術の温床となったのです。
財政難から1957年に閉校するまでの24年間、ブラック・マウンテンは「境界を作らない場所」として機能し続けました。
テル・アビブの「白い都市」——砂漠に咲いたバウハウス
ナチズムを逃れた建築家の中には、英国委任統治領パレスチナへ向かったユダヤ系の建築家たちもいました。彼らがテル・アビブに建てた建物群は「白い都市(White City)」と呼ばれ、世界最大のバウハウス/国際様式の建築群として現存しています。その数、4,000棟以上。
地中海の強い日差しに対応するため、窓は奥まった位置に配置され、外壁は白く塗られて熱を反射します。バウハウスの「素材と環境への誠実さ」が、砂漠の気候の中で新しい形に翻訳されました。2003年、ユネスコはこの都市景観を世界文化遺産に登録しています。
思想が世界の共通言語になるとき
バウハウスが閉校した1933年から10年も経たないうちに、その思想はハーバード、IIT、シカゴ、ノースカロライナ、テル・アビブで次の世代に手渡されていました。日本にも1930年代に山脇巌・山脇道子夫妻がデッサウ・バウハウスに留学し、帰国後に亀倉雄策ら戦後日本のグラフィックデザインを担う人材を育てています。
今日、私たちが「当たり前」だと思っているデザインの考え方——機能から形を導く、素材に誠実である、装飾より構造を重んじる——は、バウハウスの亡命者たちが世界中の教室で教え続けたことの蓄積です。ナチスが一つの建物を閉じることで消そうとした思想は、国境を越えて世界の設計言語になりました。
機能から形を導き、素材に誠実であり、装飾より構造を重んじる。そうした考え方は、今日のミニマルな生活道具にも静かに息づいています。ZACKのプロダクトにも、その価値観と響き合うものがあります。
ワイマールの工房から始まった問いは、80年以上の時間と数千キロの距離を越えて、今もものづくりの現場で問われ続けています。
Photo: Joe Ravi / CC BY-SA 3.0. S.R. Crown Hall, Illinois Institute of Technology, Chicago(ミース・ファン・デル・ローエ設計、1956年).
この記事は ドイツデザインの系譜|機能と美が出会った100年の歴史 アーカイブの一部です。
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